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慶應義塾大学先端生命科学研究所 からだ館

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ともに考えよう地域医療みらい図 ~自分のために 未来のために~

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院長リレーインタビュー 第六回


山形県立庄内保健所
所長 蘆野吉和さん

 からだ館通信60号から始めた「ともに考えよう地域医療みらい図 院長リレーインタビュー」では、私たちが暮らす庄内地域の医療課題や目指す姿をそれぞれの院長からうかがってきました。今回は、番外編として山形県立庄内保健所 蘆野吉和所長の取り組みを伺いました。



大事なのは身体的な健康ではなく、その人の人生や生活が一番大事であるという考え方。それを支えるためにある医療が「在宅医療」の考え方です。

Q. こうお話しされたのは2020年に庄内保健所所長に就任された蘆野吉和さんです。1980年代から在宅医療の第一線でご尽力されていますが、そこに携わる以前は腫瘍外科医として従事されていました。在宅医と外科医では対照的なイメージですが、在宅医療に携わることになった経緯を教えてください。

(蘆野)僕が大学を卒業した1978年ころは命を助ける医療をどう発展させていくのか?在宅で亡くなるのはけしからんと論じられていた時代でした。「病院」は患者を治療し治さなければならない場所だったのです。

(蘆野)僕は当時、初赴任の病院で消化器系のがんや乳がん、甲状腺がんをメスで切除する腫瘍外科医として勤務していました。その病院では病床の半分を治る見込みのない患者さんが占めていました。告知もない時代ですので、進行していくがん患者さんにも、「治る、治る」と言いながら抗がん剤治療していました。そして、最期の時まで挿管し、人工呼吸器をつけていた。さらに食べられないと心臓に近い太い血管である中心静脈から中心静脈栄養を投与し、最後は心肺蘇生もしていました。

痛みに苦しみながら最後まで延命することに疑問

彼らの多くはがんの痛みが消えることなく病院で亡くなりました。最期まで苦悶する患者を目の当たりにし、私は延命することに疑問を抱くようになりました。ただ、何としても痛みだけは取り除かなければならない。強く思うようになりました。ちょうどそのころ、世界保健機関WHOではモルヒネの使い方を掲示し、痛みをとる緩和の取り組みが始まりました。


医師は患者の痛みに鈍感ではいけない

(蘆野)まだ日本に緩和がなかったころです。モルヒネには副作用が強く恐ろしい薬物のイメージから抵抗感を覚える医療者も少なくありませんでした。それでも、時間を管理し定期的に投与するなど積極的に正しく使用すことで痛みをコントロールできることがわかりました。さらに工夫することで自宅での生活も可能になることがわかってきました。医師は患者の痛みに決して鈍感であってはいけません。

がん告知は必要とされていない時代

(蘆野)モルヒネを使用すると痛みが薄れます。すると患者さんは治ってきたと感じる。そうなると「よくなったのになぜ帰れない」「帰れないのになぜ治療をしないのか」と不安を抱く患者さんもいました。がんは告知しない方がよいとされていた時代は自分は何の病気かわからないままで亡くなっていきました。もし、そこに残された時間があると知ったら、患者はどう過ごしたいだろう。最後は家族で過ごすなど時間を使うことができたのではないか。次第に私は自宅に返してあげたいと考えるようになりました。

1987年、蘆野先生が勤務していた病院は全国で五つの試験的に始めた在宅医療のプロジェクトに参加できることになりました。
そこで新しい概念「在宅ホスピス」という未知の分野に取り組むことになります。当時は介護保険もなく在宅の医療制度もない時代です。ここから本格的に在宅医療に取り組むことになりました。

(蘆野)告知の必要性も検討され始めました。そこで患者さんへのアンケート調査を行ったのです。「がんになったとき知らせてほしいですか?」を問う内容です。すると、やはりみんな知りたい、と答える。でも、告知されるとショックを受けるのです。そこで検討を重ね、患者さんや家族との信頼関係を十分築いたうえで、病名と残された時間を説明しました。はじめショックをうけていた患者さんや家族も、そのうちに残された時間を有意義に使いたいと考え始めるようになりました。

在宅医療試行錯誤

当初は自宅に医療を持ち込む、自宅のお部屋を病院にするイメージです。そして死期が近づくと病院へもどし医師が看取る仕組みを想定していました。
しかし、うまくいかない。みんなそもそも自宅に帰りたがらない、それは病院にいれば治療してもらえて、治ると考えるからです。また一度自宅へ帰ると再入院したくない患者さんもでてきました。
いずれにしても看取りは病院でするとしか考えていませんでした。

医師の思い

(蘆野)当時の私は、患者さんが死を迎えるときは医療者がそばにいなければならない、それが医師の最後の役割だと考えていました。たとえそれが寿命でも患者さんが亡くなることは申し訳ないという気持ちがありました。
ある日私の患者さんが死を迎えるとき病院に戻るのが間に合わず自宅で亡くなりました。そこで急遽、家族が自宅で看取りすることになったのです。家族からさぞ叱られるだろうと思って訪問したところ、予想に反して家族に笑顔で迎えてもらいました。理由は家族が最期の時によい看取りができたからです。亡くなった本人も本当に穏やかないい表情をしていた。通常入院していた患者さんは、延命治療をするため細い腕に点滴したりと本人に負担が大きく、苦しみが伴う場合も多かったのです。この瞬間ですね、1992年、もう、看取りは在宅でしたいと思いました。

地域での看取り

あるとき、小さな集落で若夫婦がおばあさんを看取ることになりました。でも、若夫婦は不安なわけですよ、看取りの経験がないから。


(蘆野)そんなとき、近所のおばあさんが来てくれて「大丈夫、私は何人も看取っているから」と声をかけてくれたのです。

その時、地域のつながりや、力をお借りすれば地域で看取りもできると思いました。在宅医療は地域文化も育むことができるのです。

地域包括ケアの枠組み

ただ、当時は介護保険制度もないので自宅に帰っても福祉器具もありません。家族の人数、年齢、経済力も考慮しなければなりません。そこで、病院、医師会、社会福祉協議会、保健所、市役所など地域全体で支えるプロジェクトをスタートさせました。今でいう地域包括ケアシステムに近い恰好です。


からだ館通信第65号(2022年6月30日号)掲載